【大久保:メルマガ】感想文を極力書かせないようにしてきた背景
2014年2月27日
こんにちは。
ソフトテニスチームの大久保 幸一です。
先日、フェイスブック繋がりの教え子が、
「新入社員研修終わったあ。感想文どう書いたらいいの?
だれか助けてや。」とコメントを載せていました。
僕は、早速「よかったら相談にのりますよ。電話下さい。」とメッセージを送りました。
次の日、彼から電話がありました。
さて、僕がどんなアドバイスをしたかについてはさておき
今回は、感想文の現状について少し考えてみたいのです。
まず、僕たち生活つづり方に関わったものは、
感想文を極力書かせないようにしてきたということを知って頂きたいのです。 難しい。難しすぎるのです感想文は。
自分のしたこと・見たこと・聞いたことですら、中々思い出せず、
「書くことない。」「どう書くの。」とすぐ弱音をはく子どもたちです。
読んだり、観たり、聴いたりしたことを、その内容を紹介しながら、
思ったり感じたことを思い出して文章にするなど、至難の業です。
よく目にするのが、読書感想文。
それも、夏休みの宿題などによく出されます。
共通作品の感想にしろ、自由作品の感想にしろ、
問題がたいへん多いように思われます。
共通作品の場合、指導する指導者は、作品を読んで指導ができる
という利点はあっても、それは、指導者の側の都合に過ぎません。
多くの子が、書きたいことを与えられる、書きたいという気持ちが薄れるのです。
自由作品の場合も、子どもたちが中々自分にあった作品を
選べないという課題がある。その上、指導者がその作品を
すべて読んでいるなどということはあり得ないのです。
いずれにしても、深い感動があってどうしても人に伝えたい、
その作品世界を多くの人と共有・共感したいという最低限度の
ベースが必要となります。ここでは、読み取る深さと、感性
(値打ちに気づく感覚)が問題となります。
さらに、子どもたちにとって感想文を書く意義が明確になっている
のかという根本的な問題が残っていることも忘れてはならないと思います。
指導する側の問題についても、少し考えてみたいと思います。
子どもたちにその意義をはっきりつかませる前に、
なぜ、感想文を書かせるのか?、 その教育的意図ははっきりしているのか?、
感想文が無理なく書けるようになるための 系統的指導法はあるのか?(教科書には載っていません。)
指導者はそれを学んでいるのか?、 優れた感想文のイメージを指導者は持っているのか?、 そしてそうした優れた作品をどれほど手元に持っているのか?、
など厳しく問われなければならないはずです。
(優れたとは、鑑賞に足る文章。読み聞かせだけでも、
子どもたちが身を乗り出し、釣り込まれるような作品と一応定義しておきます。)
ですから、僕たちは、安易に感想を書くことを子どもたちに課すことをしないのです。
15年ほど前のことでした。
人権教育に対する印象について、高校生にアンケート調査が行われました。
圧倒的多くの生徒たちから、「暗い」「説教がましい」「すぐ感想を書かされる」
という極めて批判的な声が寄せられたことを忘れてはならないと思います。
ソフトテニスチームの大久保 幸一です。
先日、フェイスブック繋がりの教え子が、
「新入社員研修終わったあ。感想文どう書いたらいいの?
だれか助けてや。」とコメントを載せていました。
僕は、早速「よかったら相談にのりますよ。電話下さい。」とメッセージを送りました。
次の日、彼から電話がありました。
さて、僕がどんなアドバイスをしたかについてはさておき
今回は、感想文の現状について少し考えてみたいのです。
まず、僕たち生活つづり方に関わったものは、
感想文を極力書かせないようにしてきたということを知って頂きたいのです。 難しい。難しすぎるのです感想文は。
自分のしたこと・見たこと・聞いたことですら、中々思い出せず、
「書くことない。」「どう書くの。」とすぐ弱音をはく子どもたちです。
読んだり、観たり、聴いたりしたことを、その内容を紹介しながら、
思ったり感じたことを思い出して文章にするなど、至難の業です。
よく目にするのが、読書感想文。
それも、夏休みの宿題などによく出されます。
共通作品の感想にしろ、自由作品の感想にしろ、
問題がたいへん多いように思われます。
共通作品の場合、指導する指導者は、作品を読んで指導ができる
という利点はあっても、それは、指導者の側の都合に過ぎません。
多くの子が、書きたいことを与えられる、書きたいという気持ちが薄れるのです。
自由作品の場合も、子どもたちが中々自分にあった作品を
選べないという課題がある。その上、指導者がその作品を
すべて読んでいるなどということはあり得ないのです。
いずれにしても、深い感動があってどうしても人に伝えたい、
その作品世界を多くの人と共有・共感したいという最低限度の
ベースが必要となります。ここでは、読み取る深さと、感性
(値打ちに気づく感覚)が問題となります。
さらに、子どもたちにとって感想文を書く意義が明確になっている
のかという根本的な問題が残っていることも忘れてはならないと思います。
指導する側の問題についても、少し考えてみたいと思います。
子どもたちにその意義をはっきりつかませる前に、
なぜ、感想文を書かせるのか?、 その教育的意図ははっきりしているのか?、
感想文が無理なく書けるようになるための 系統的指導法はあるのか?(教科書には載っていません。)
指導者はそれを学んでいるのか?、 優れた感想文のイメージを指導者は持っているのか?、 そしてそうした優れた作品をどれほど手元に持っているのか?、
など厳しく問われなければならないはずです。
(優れたとは、鑑賞に足る文章。読み聞かせだけでも、
子どもたちが身を乗り出し、釣り込まれるような作品と一応定義しておきます。)
ですから、僕たちは、安易に感想を書くことを子どもたちに課すことをしないのです。
15年ほど前のことでした。
人権教育に対する印象について、高校生にアンケート調査が行われました。
圧倒的多くの生徒たちから、「暗い」「説教がましい」「すぐ感想を書かされる」
という極めて批判的な声が寄せられたことを忘れてはならないと思います。